snow melt

written by N

ネタバレ: ネタバレなし


「そんな小さな声で話さなくても……!」

電話の相手は陽気な声で私を否した。私はエレベーターホール観葉植物の影に隠れながら声のボリュームを最大限に抑え、吐息交じりにケンさんをとがめる。葉の間から差し込む黄色い日差しが眩しい。

「(いやいやいやいや……CEOは地獄耳なんです!私が保証します!)」
「またまたご冗談を。」

ケンさんの笑いを含んだ声を聞いたその時、鋭い声が私の耳を貫いた。一瞬息が止まる。

「ケン、……電話の相手はあいつか?悪いが、急ぎで先月の総会資料を持ってきてくれ。」

まさか話題の中心にしていた人が口を挟んでくるとは思わず、私は聞こえる訳もないのに余った片手で口元をパチンと抑えた。耳元でケンさんが堅い声を出す。

「かしこまりました。」
「(ケンさん?)」

静まり返ったスマートフォンを耳から離して、まだ電話が繋がっていることを確認する。画面にカレンダーの通知が出た。『今日 ゼン誕生日』。
しばらくするとザリザリと電話口を布がこするような音が聞こえて、ケンさんが戻ってきた。ちゃんと息を潜めて。

「(こんなこと初めてですよ!CEO室は音が漏れない設計になってるんです!
……もしかして、相手があなただっからCEOは気付いたんじゃないですか?)」

もし本当に音が漏れないのだとしたら、ゼンはエスパーだとしか思えない。私は苦笑いしながら適当に相槌を打った。

「(ケンさんのスマホに盗聴アプリが仕掛けられているとか……)」
「(……じょ、冗談でもやめてください!たしかに会社支給のスマートフォンですし、いつも会話を聞いていたように問い詰められますが、……え?……いやとにかく!出張帰りなのでCEOの自家用車は自宅にあります。今日のご帰宅は役員についている運転手を手配しました。もちろん買収済みです。)」
「(ありがとうございます!今回のサプライズはケンさんだけが頼りなんです。よろしくお願いします……!)」
「(お祝いですしお手伝いしますよ。あなたにしか出来ないことがありますから。……CEOが会社を出られたらまた連絡します。)」







 誰かと向き合う。相手はやさしく微笑んでいるように見える。「彼」のことを、「私」はずっと前から知っていたような気がする。「私」たちはなにも言わずに寄り添って、地面に降り立つ。背後にタワーがそびえ立ち、ビルが建てられる。
天地はひっくり返り、世界は静かに水が満ちる。大風が吹きすさび、辺り一面に真っ白な雪が舞い踊る。「私たち」は寄り添ったまま、動くことはない。頭から徐々に水に浸かり、世界は閉じられ、そして完全になる。
 横目で外の世界を見た。空が陰り、大きな窓から差し込んでいた黄色い光が下を向き、そして消えた。「私」によく似た形の巨大な生物が店の外を通り過ぎ、また戻り、店内に入ってくる。「私たち」の世界を覗き込むと、その両目がきらりと光り、細められる。音がこちらに届くことはない。でもたぶん、こう言っているはずだ。

「きっと彼も喜ぶと思います……!」

 「私」は私に手渡される。







 まもなく日付が変わろうとしていた。商業ビルが立ち並ぶ街の真ん中で、ヘッドライトに塗れる。行き交う車は停まる気配がない。時折つよい風が吹き、耳元でびゅうびゅうと音を立てる。そのあまりの冷たさに肩をすくめた。枯葉が舞い、マフラーの中にしまいきれなかった髪が一房煽られる。
ついに歩道に沿って黒塗りの車が滑り込んできた。後部座席にゼンが乗っていることを確認する。彼は不服そうな顔で運転席に向かって文句を言っているようだった。返された言葉に何かを呟くと、むっつりと口を引き結んで腕を組み、座席に沈み込む。
私がそっと車に近付き窓ガラスをノックすると、私の姿を視界に収めたゼンが、ガラスの向こうで目を伏せて肩を大きく上下させた。ため息をついたらしい。
ビー、と小さな電子音と共に窓が下げられ、それに合わせてゼンの姿が鮮明になっていく。

「おまえの仕業だな。」

上から見ると、いつもよりずっと目つきが悪く見えた。夜の闇を映したゼンの漆黒の目には、鋭い光が宿っている。

「私が悪者みたいな言い方しないでよ。」
「俺を騙しておいてなんだその言い草は……要求は金か?」
「ゼンも冗談を言えるようになったんだね……!」
「冗談?運転手はケンに買収されたと証言しているが。」

運転席から運転手さんの「買収とは申し上げておりません。」と抗議する声が聞こえた。「ボランティアです。」
ゼンがふんと鼻を鳴らす。

「まあまあ小さいことは置いといて!CEO様、今日は夜更かしにお付き合いください。」
「月曜からか。おまえも暇だな。」
「旧正月前だよ?」
「おまえも仕事だろう。」
「それはそうだけど……運転手さん、カギを開けてください。」

運転手が振り向いて開錠を知らせると同時に、私は勢いよくドアを引いた。ゼンの組まれたままの左腕をつかみ、引き抜く。解かれた腕の袖を滑るようにして手を取り、外へと誘導した。彼の片方の靴がアスファルトを踏みしめる瞬間を見る。彼の目よりも深く染まった黒に、白が舞い降りて、溶ける。

「あっ」

雪は次から次へと降り始めた。彼の肩や髪に落ちてはすっと消える。
「ホワイトバースデーだね」
「なんだそれは……」
ゼンは私の鼻についた雪を拭いながら、呆れたように笑った。







 エレベーターのに乗り込むと、隣に立っているゼンが先に口を開いた。

「なぜあそこにいた?」

もちろんこのサプライズのためだったけど、私はゼンに報告したいことがあったので意気揚々と答えた。

「この前ゼンに2月の特集について相談したことがあったでしょ?そのあと急遽アメリカにしかないお店が日本に出店することが決まって、それがこのビルの1階に入ることが決まったの!最近世間に浸透しつつある、豆から自家工場で作るチョコレートショップだよ。まだまだ知らない人も多いから、市内で同じように経営しているショップも一緒に紹介しようと思ってるの!」

私が興奮しながら話し終えると、ゼンは満足そうに笑った。

「おめでたい脳みそだな。」
「どういう意味デスカ。」
「そのままの意味だ。店を紹介するだけなら誰でもできる。それに来年世間に浸透していないと保証できるのか?企画を早急に練り直すんだな。」
「まだちゃんと企画の内容も聞いてないのに!」
「綿密な企画が出来上がっているときは、いつも詳細に話すだろう。」
「うっ」

私を一通り責め終わると、ゼンは黙ったまま、雪の降る外の景色を眺めていた。時折柱の陰が通り過ぎ、彼の顔を隠す。彼の瞳の中を光と影が通り過ぎ、私はそれに見惚れていた。


 目的の店舗の前について、ゼンを後ろに控えたままゆっくりと鍵穴に鍵を差し込んだ。扉が開かない。何度も借りた鍵を抜き差しするが、鍵穴が回らない。他に受け取ったものはなかった。

「あれっ?え?」

背筋が凍った。指先は冷えて感覚がなくなっていく。どうやら間違って別の入口の鍵を受け取ってしまったらしかった。右側の分厚いガラス越しに差し込む月明りや街の夜景とは反対に、左側からじわじわと暗い廊下の肌寒さが迫ってくるようだった。その奥で点滅する非常口の緑色が染みるように痛い。目の前にあたたかな空間があるのに、ドアの隙間から穏やかなBGMも漏れているのに、私の手はそこに届かない。
 忙しさにかまけて下見を怠った私の落ち度だった。最低限の準備も人任せだったし、守衛さんもレンタルスペースの鍵を持っているわけじゃない。夜間は対応してもらえないことを承知で借りたから、管理人さんにも頼れない。私はわかっていながら、鍵を開けようと何度もなんども回し続けた。なんとしても、ゼンの誕生日をお祝いしたかったのに。

「もういい。」

後ろから伸びてきたゼンの熱い手が私の手をつよく握って止めた。胸が突風が吹いたように激しくざわめき、やがて視界が揺らぎ、曇り、暗くなっていく。彼を不機嫌にしてしまった。せっかくの誕生日なのに。一年に一日しかない、大事な、特別な日なのに。







「無理言って、このスペースを借りたの。」

ゼンの手をすり抜けて、しゃがみ込む。

「ほんとうは夜間、貸し出ししてないお店でね。ケーキも保冷剤をたっぷり付けて貰って、夕方のうちに運び入れて貰ったんだよ。」

鍵が開かなくて床に投げ出したカバンを手繰り寄せる。もはや持ち上げる気力もなかった。荷物に当たらないように大事にいちばん上に乗せた透明のケースを取り出した。ガラスの球体でできた世界は、淡い色の木で出来た土台の上に鎮座している。中には金融街を模したビルとタワーが建ち並び、その前で私たちによく似た二つの人形が寄り添っている。ケースごとひっくり返してまた戻すと、雪が舞い始めた。世界は真っ白になる。二人の上に降り積もる。

「この二人みたいに、楽しく笑い合って誕生日をお祝いする予定だったの。ケーキだって、ゼンもびっくりするくらい美味しいものを用意したのに……」

ゼンは身をかがめると、私の目元を親指でやさしく拭う。それでもゼンの顔は見られなかった。私は手のひらに乗ったスノードームを見つめた。この二人みたいになりたくてたまらなかった。店舗で受け取った時より、中にいる二人の笑顔が寂しそうに見えて、余計に落ち込んだ。

「……日付が変わったな。」

場にそぐわない挑発的な口ぶりにぱっと顔を上げると、腕時計のついた腕を持ち上げながら不敵な笑みを浮かべるゼンと目が合った。今度は私が腕を取られる。ゆるゆると手を引かれるがまま立ち上がり、ゼンの胸に収まった。ゼンがなだめるように私の髪を梳く。
「俺が仰天するようなケーキをいますぐ食べられないのは残念だが……」

ゼンは一度言葉を切って、また続けた。

「おまえと俺はおとぎ話の住人ではないだろう。上手くいかなくたっていい。……大体、おまえの企画が完璧に進行するとは思ってない。」
「なっ……!」

ゼンの顔を見上げる。さっきの不敵な笑みとは違うように見えた。柔らかな表情にすら見える。ガラスの向こうで、雪の中をぼんやり照らしている月明かりのせいかもしれない。

「俺の誕生日祝いはどうした?単純なおまえのことだ……大概、ケーキを出してバースデーソングでも歌うつもりだったんだろう。」
「そうだけど……」
「仕方がないから聞いてやる。」

そう言うと、ゼンは私の頭をそっと胸に押し付けた。ゆっくりしたゼンの呼吸を感じながら、言われた通りに歌を口ずさむ。聞き慣れたメロディーに、徐々に気持ちが落ち着いてくるのを感じた。

「まさか、大人になってからこんな風にバースデーソングを歌う日がくるなんて思わなかったな。」
「俺も自分の誕生日にバカを慰めることになるとは夢にも思わなかった。」
「……ゼン!」

むくれた私に満足そうな表情を浮かべたゼンの顔が近付いてくる。「なにか言うことは?」私はゼンがお祝いの言葉を強請っているように思えて、にっこりしながら彼の耳元で囁いた。

「(お誕生日おめでとう。)」
「ああ、ありがとう。」

ゼンがふっと鼻で笑った。

「おまえのおかげで、なかなか忘れがたい一年になりそうだ。」

あたたかな唇がこめかみに降ってくる。顔が火照って降り積もる雪が解けてしまいそうだ。