甘い余韻

written by 奈由

ネタバレ:

 辺りに漂う甘い香りを胸いっぱいに吸い込む。ここでは、肌を刺すような冬の寒さも張りつめたような冷たい朝の空気も、全く無縁のものだ。

 後ろを振り返るとブルーグレーの瞳と視線がぶつかる。ゼンは入り口で立ちつくしたまま、訝しげにこちらを見ている。

「ねえゼン。予想はしてたんだけどさ」
「…なんだ」
「貴方ってほんとうにビニールハウスが似合わないね」
「お前は俺の車に乗ってここまで来たことをもう忘れたのか?帰りの足を確保できるか心配した方がいいな」
「わー嘘です!冗談!さ、どんどん食べるぞ〜」

 誕生日のデート、どうせならゼンが今まで体験したことのないものを、と色々と私なりに熟考した結果が今日のこのイチゴ狩りだ。
 シーズンはまだ始まったばかりとあって、ビニールハウス内に人はあまり多くない。ここは水耕栽培のハウスだから土で汚れることもない。我ながら中々良いチョイスのように思える。

 ちょうど目線と同じ高さの所によく熟れたイチゴがあるのを見つけた。手を伸ばしてもぎ取る。
 やわらかな果肉に歯を立てれば、口の中に一気に酸味と甘味が広がった。

「ん…あまーい!」
「……うまそうに食べるな」
「そりゃ美味しいからね。あ、ゼンは初めてでしょ?イチゴ狩り」
「ああ。店売りのイチゴで用は足りるし、一定の品質が保証されているからな」
「まーアトラクションみたいなものだよ。こうやって一緒に並んでイチゴをもいで食べるのが楽しいの」
 ゼンと会話をしながらも私は栽培棚から視線を外さず、おいしそうなイチゴを探していく。何しろ時間は有限なのだ。
 指先がイチゴの果汁で赤く染まるまで、さほど時間はかからなかった。

「♪あまい〜まるいー、おおきい〜うまい!」
「…………。」
「イェイ♪ あまおう〜〜」
「…食事の時もうるさい奴だと思っていたが、お前はどこでもうるさいんだな」
「はいはい、お褒めに預かり光栄の極み〜〜…あっほらゼン、見て!これ絶対美味しいと思う!」

 真っ赤でつやつやした形の良いイチゴをもいでゼンの目の前に差し出すと、彼はすこしだけ目を見開いた。

「自信作!食べてみて!」
「…お前が作ったわけじゃないだろう」

 そう言いながらゼンはひょいと私の手首を掴んだ。予想外の動きにあっけにとられる。

「えっ」

 何を思ったかゼンはそのまま顔を寄せ、私の手から直接イチゴを食べた。形の良い彼の鼻の先が指に触れ、その温度に否応なしにドキドキさせられる。

「……確かに、甘いな」
「〜〜!!!」
 してやったりとばかりにニヤリと口角を上げて笑うゼンを咎めるように睨みつけたが多分あまり効果は無いだろう。きっと今、私の頰はいちごみたいに赤くなっているだろうから。

 出口に併設された売店にはパック詰めされたイチゴが売られている。そのうちの一つを手に取ると、すぐに後ろから呆れた声が飛んできた。
「なんだ、あれだけ食べたのにまだ食べるつもりなのか」
「違うよ!」
 ごく自然な動作で財布を出そうとするゼンの手を押しとどめながら、首を横に振る。
「これは、貴方の誕生日お祝いケーキに使う分だから」
「ケーキ?」
「…あの、もちろん貴方が作るケーキに敵わないのはわかってるんだけどね、それでも作りたくて…」

 ゼンは目を丸くしてこちらを見ている。珍しく驚いているようだった。その視線にいたたまれない気持ちになって、思わず目を逸らしてしまう。

「あ、えっとだから、次の目的地は私の家でお願いします」
 言いようのない気恥ずかしさに襲われ早口で言い切ると、ゼンの返事を待たずに会計を済ませて駐車場へと向かった。

 車に乗り込んだ後も恥ずかしさは消えてくれなくて、運転席の方を見れずに窓の外ばかり見てしまう。もう早く出発してほしい。

「おい、--」
「なに?」
 名前を呼ばれ顔を向けると、すぐに肩を軽く引き寄せられた。それから、私の手からイチゴを食べた時と同じように顔が近づいてくる。ただし、今度は指先めがけてではなかった。

「…いつまでもボケっとするな。シートベルトをしろ、出るぞ」
「あ、わ、うん」
 エンジンのかかる音がする。静まり返ったままの車内にFMラジオの音がゆっくりと流れ出す。

 窓の外を流れていく景色から視線を外し、ゼンの横顔をちらりと盗み見る。さっき突然キスをしてきたとは思えないほど、涼しげな顔でハンドルを握っている。
 彼の好意はいつもわかりづらいのに、なんだか今日はいつもよりずっと素直で、ずいぶんと甘い気がする。

 (やっぱり、それだけゼンにとっても誕生日は特別な日なのかな)

 戸惑いと甘い疼きが胸に交互に去来する。感触を確かめるようにそっと自分の唇に触れる。触れただけの優しいキスは、確かに甘いイチゴの味がした。

 (今日を、もっともっと特別な1日にしたいな)