安らぎの時間を共に

written by ゆき

ネタバレ: ネタバレなし

ストーリーのネタバレはございません。

 さくさくと先陣をきって歩く様は勇ましいが、多少危なっかしい。らしくもなく手を差し伸べてやりたくなるが、それもどうも癪だ。
「ほら、ゼン。早くしないとただの散歩になっちゃうよ」
 こちらの思っていることなどお構いなしに、くるり、と振り返り無邪気な笑顔を見せる。
「――わかっている」
 ただ、それだけ答えると彼女はすぐに頬を膨らませる。まるで子供のようだな、と彼は咄嗟に思ったが、口に出してしまうとますます機嫌を損ねそうだったが、つい溜め息をついてしまう。すると、
「ゼン、今私のこと子供みたいだって思ったでしょ」
「そんなことはない」
「嘘、その溜め息が言葉にしなくても明らかに物語っているよ」
 すると、ゼンは今度は隠しもせずに溜め息をつくと、
「ただのバカじゃなくなったようだな」
「二回も溜め息をつくとか、ひどいにもほどがあるよ」
「全部が全部同じ意味じゃないとしたら?」
「そ、それなら……まあ……って、よくないから!」
 論点がどこかずれたような……と彼は思いつつ、
「それで、おまえは一体どこへ向かおうとしている?」
 明日が休みであろうがなかろうが、会社のトップでもある彼は日々多忙を窮めている。現に今日も仕事終わりに何とか時間を作って彼女の誘いを受けたという訳だ。
「着くまで内緒だって昨夜も通話で言ったはずだよ」
 その日の夜は急に空気が冷たくなったような気がしていた。冬特有の現象だろうと気にも留めなかったが、朝方からだの芯から冷えるのを感じて、寝室のバルコニー側のカーテンを開けた瞬間言葉を失った。
 まだ1月上旬というのに外は一面白色に覆われていて、恋花市は異常気象にでも見舞われたのかと思ったくらいだ。これにはさすがのゼンも呆然としてしまった。だが、かといって、約束えお破る理由になる筈もなく、ましてや、仕事を休むとか言語道断だ。
 すっかり目が冴えてしまった彼ではあったが、この天気の中ジョギングをする気分にもなれず、時間まで未処理の書類に目を通すことにしたのだった。
 ゼンが今朝までの出来事をふと回顧していると、彼女の答えで一気に現実へと引き戻された。
「それを言ったら面白くないから内緒だよ」
 あくまで言うつもりはないんだな、とそれ以上追及するのはやめて取り敢えずその目的地とやらに付いていくことにしたのではあるが、相変わらず威勢はいいが、雪に埋もれそうな足元を見ては内心冷や汗をかく羽目になったのである。


 案内された個室ですぐ目に入ったのは大きめなデスクがひとつと、リクライニングチェアが二つ。そして、そのデスクの上にはデスクトップパソコンが一台。
「わあ、思っていたよりも広いね」
 入室してから開口一番に彼女が嬉しそうに解き放った言葉がそれだった。そんな彼女とは対照的に冷めた表情を隠そうともしないゼンは、
「おまえが連れてきたかった場所というのはここか」
 彼女のことだ。てっきりショッピングモールかテーマパークといった類の場所を選択すると予想していたのだが、それを遥かに裏切られた。
「そうだよ。あ、だからといって、理由もなくって訳じゃないからね」
「これで理由がなかったら俺はすぐ帰るぞ」
 存在こそは知ってはいたが、縁など絶対ないと思っていた場所。所謂、ネットカフェというやつだ。わざわざ外出してまで来なくとも、互いの自宅でも問題ないと思っているので余計に不思議だった。
「とりあえず立ちっぱなしもなんだし、座ろうよ」
 彼女はそう言うと、リクライニングチェアへ座る。
「あ、思ったよりも座り心地いい」
 声を弾ませて喜ぶ様を見て彼もそれに習い、隣のチェアに腰を下ろす。
「ふむ……」
「ね?中々馬鹿にできないよね」
「それはそうなんだが……。それで、おまえの目的はなんだ」
 照明は抑え目にしてあって確かに落ち着きはするが、未だ彼女の真意を測りかねていた。すると、彼女はやや節目がちになると、
「ゼン、いつも仕事で大変みたいだから少しでも労おうかと思って。ここなら薄暗いし、リラックスできるかなーなんて」
「フン、おまえなりの気遣いてことか」
「この前、どうしても企画書が上手くいかなくって、気分転換に来てみたんだよ」
 ネカフェを選んだ経緯を彼女は語りだす。彼が一人では絶対来ないであろうという確信もあった故。
「まあ、悪くは無いが、材質等は会社や俺の部屋にあるものには負けるな」
「もう、絶対そういうと思った」
 大切なのは気分転換とでも言いたげに、彼女はPCの電源を入れてインストール済みのゲームのラインナップを眺め始める。
「なんか面白そうなのないかな」
「くだらんな。やるならおまえ一人でやれ」
 明らかに興味がなさそうな彼に何とか頼み込むような形で開始してはみたものの、彼女が勝つことは皆無に等しかった。
 ゼンはデスクに突っ伏して項垂れている彼女に勝ち誇った笑みを向けると、
「おまえは相変わらずツメが甘いな」
「……もう!ゼンは大人気なさすぎだから」
 それからヒーリングミュージックを探して二人で聞くことにした。ヘッドフォンから聴こえてくる音楽が脳内を刺激でもするのか、彼女は段々と睡魔に襲われそうになる。そしてふと、横目で彼の様子を見てみた。
 どうやら仕事の疲労が溜まりに溜まってピークを迎えていたのであろう彼は、彼女の隣で何時の間にやら安らかな寝息を立てていた。整った顔立ちだなと改めて思う。
「……ゼン?寝てしまったの?」
 問いかけてみるが、起きる気配は皆無だ。ほんのちょっとした悪戯心で、人差し指で頬をちょんっ、とつついてみるが全く反応がない。彼女はごくり、と唾を飲み込むと、その端正な顔をほんの数分眺めて、そして。
 寝ている相手にこれは流石に卑怯だとは思いつつも、彼女は突発的とはいえつい行動を起こしたくなってしまったのだ。数秒前に彼の頬に触れた己の唇を両手で押さえると、今頃になって突如羞恥心で心が席捲される。
 相手は気付いていないのが、幸いと言えるだろう。どうか、このまま無事に朝を迎えられますように――、とそこまで考えて、このまま本当にゼンが起きなければそれは現実となってしまうであろう。さすがにそれはまずいのではなかろうか。
 自分の行った行為は知らないままで、起きてはくれないだろうか、と、つい都合のいい事を考えてしまう。
「ほんとはゆっくり寝ていて欲しいんだけど、我が侭だよね」
 ぽつりと吐露した独り言は宙へと消えていった。

「――やっと起きたか」
 すっかり聞き慣れてしまったその低音が更に凄みを増しているようで、彼女はビクッと体を震わせて目を開ける。
 どうやらデスクに突っ伏して寝入ってしまったみたいで、デスクの冷たい質感が頬と密着していてひんやりとしていた。そのせいもあってか、覚醒するのにほとんど時間は要しなかったのだ。
 がば、と起き上がって改めて周囲を見渡すと、呆れた視線を投げかけているゼンと目が合った。
「あ、あれ?」
「あれ?じゃない。おまえは一体どうしたいんだ」
 どうもこうも、寝てしまったゼンを起こすのが忍びなくなったとは到底言えず、答えあぐねていたその時だった。
「だって……ゼン、相当疲れていたみたいで、全く起きる気配がなかったし」
「それで、おまえまで寝てしまったら本末転倒だろう」
「ほ、ほら、つられてしまうのはよくあることじゃない?」
 嘘は言っていない。彼の無防備な寝顔を見るのはこれで何度目だろう。少しは気を許してもらったと自惚れてもいいのだろうか。
 ゼンははぁ、と溜め息を吐くと、
「まあ、おまえらしいといえば、らしい、か……」
 今度の溜め息は呆れているとは到底思えない。そんな確信があった。寧ろ、寝起き特有の低音が心地よいとすら。
「あ、それでね。結局昨夜言い忘れていたけど――」
 本来の目的を果たしていないことを漸く思い出した彼女ではあったが、続きを伝えることは敵わなかった。
「……あれで、俺に勝ったとでも思っているのか」
「あれ?」
 一体何のことかと記憶を辿ってみるが、まさかとしか思えなかった。いや、どう見ても絶対寝入っていたとしか。
 思考を巡らせてぐるぐるしている彼女の様子をさも意地悪そうに眺めながら、利き手でつ――とその下唇を撫で上げて、
「するのであれば、ちゃんとここにしろ」
 低音に加えて、更に掠れ気味のトーンの後、再び唇を重ね合わせたのだった。

ゼンさんが行かなそうな場所をあえてチョイスしてみました。密室だしかなりおいしいのではないのでしょうか……。